726.5番地

檻に足を踏み入れると、目の前が暗転する。私はこの事件に関わってから少しおかしくなってしまったのかもしれない。なぜなら、こういう超常現象が起こる度に、また彼女に、南玲子に会えるのではないかと期待している自分の存在を感じるからだ。しかし、私の期待は淡くも裏切られた。目の前にはこの世のものとは思えない怪物たちの顔。私を見るその目には何が映っているんだろう？「自分で殺した女を愛する愚か者か？」「木桧さんの目を恐れる臆病者か？」「零課を守ると言い張る偽善者か？」どれにしても今の私は救えない道化師だ。自分でもどうなるべきなのかすらもうわからない。私は零課を守るための盾だ。だが、その事実も崩れ去ろうとしている。私は彼女を愛してしまった。しかしそれは私の殺した女であり、木桧さんの愛妹だ。これは禁忌の愛だ。知られてはならない。しかし、だからこそ私には求めたくてたまらないものなのだ。目を覚ますと、強制的に手に視線が向けられる。それを見た私は、背筋が凍った。あの日以来、握ることを恐れていたもの。拳銃が握られている…。ここで私は嫌な予感がした。前回のアミューズメントパークでは木桧さんの思い出を抉るようなシステムが起動された。このサーカスにあるセピア色の世界も私を苦しませるものだとしたら？そしたら、きっと…最後に私はまた彼女を撃ち殺さなければならないだろう…。前に進むのが怖くなる。でも行かなければ。この檻は私にしか壊せないのだ。目の前に地獄の植物が現れ、零課の面々が身構える中、私は見た。見えてしまった。ああ、やっと…。地面にはアイビー、薔薇、アザレアが咲き誇り、白、青、薄桃色の美しい絨毯を作り上げていく。その向こうに、彼女が、南玲子が立っている。私は不意に思った。「彼女は私を待っている。」しかし手を伸ばそうとした瞬間、彼女は美しい花畑とともに消え去ってしまった。「どうして。」「どうして私を置いて行ってしまうの？」ふと我に返ると、零課の面々が地獄の植物を蹴散らしていた。自分を叱咤するように強く両手で頬を叩いた。そうだ。私のこの力は、この人たちを、大切なこの人たちを守るためのものではないか。大切なはずの零課のメンバーと南玲子との間で揺れ動く自分の心に鞭を打つためか、はたまたそんな自分に嫌気が差しての八つ当たりか。渾身の蹴りは地獄の植物を吹き飛ばし、最後の一株が動かなくなった。皆は前へ進む。しかし、私の心には靄がかかったようだった。「玲子さん…やっと会えたと思ったのに…。」鬱々として歩を進めると、巨大な白骨遺体が横たわっていた。アイハイ族…そんなものに興味は微塵も無かったが、ここでも人花教の研究資料が見つかる。人花教…そんなものが無ければ、玲子さんは平和に…あの無垢な笑顔で笑い、褐色の髪を風に踊らせながら、木桧さんと一緒に穏やかな人生を送ったのではないか…そう思う度に人花教が、ヴルトゥームが憎くてたまらない。しかし、彼女が人花教に入信していなければ、私が彼女に出会うこともなかったのだ。そして、殺すことも…。もっと違う形で出会えていたなら…何度そう思っただろう。次の檻もたやすく壊し、先へと進もうとした瞬間、彼女の腕が私の首に回されたのを感じた。体の温度が一気に上がる。「玲子さん…。」彼女が私にささやきかける。その吐息さえ感じられるほどに現実味を帯びたそれは、思わず自分が溶けてしまいそうな感覚を覚えるほどだった。「彼女が私に会いに来てくれた」私の心臓は早鐘を打つ。「私に何かをささやきかけている」「ああ、もっとその鈴のような声を聞かせて…」しかし、彼女の言葉はなぜか耳に入ってこない。そして、手には何かぬめりけと温かさを感じた。目をやればそこには血…血…どこも血だらけの真っ赤に染まった両手だ。思わず叫びそうになる。金切り声を上げて、なにもかもめちゃくちゃにしてしまいそうになる。脳裏にあの光景が蘇る。腹部から流れる真っ赤な真っ赤な血…彼女は…幸せだったのか…？ ふと手に視線を戻すと、弾丸が握られている。ああ…なんてことだ…これは私が想像した最悪のシナリオが進んでいるのではないか…？どうか、この弾丸で彼女をもう一度撃つことがありませんように…そう願い強く弾丸を握る。そのときだった。「タケダ、何かあったのか。」チーフの声に飛び退く。今ここで体験したことを話すわけにはいかない。木桧さんが許さないだろう…。しかしチーフに嘘が通じないのもわかりきっている。「私が会いたくて、でも会いたくない人が待っているんじゃないかって…少しこわいです。」口からなんとか取り繕って絞り出したのはこんな子供が言うような言葉だった。しかし、彼はそれで納得してくれたようだった。ほっと胸を撫で下ろす。このまま深堀りされて木桧さんに私の気持ちを知られたらどうなるか…恐ろしくてたまらなかった。南玲子のためにこの首に埋まった植物とともに逝くのも悪くはない。そう思っていた、はずなのに。私は零課のみんなに危険な目に遭ってほしくないと思っている。守りたいと思っている。矛盾にも程がある。複雑な気持ちで先へと進む。そこには、アイハイ族と怪物たちが居た。自分で殺した同僚の妹を愛する女…もはやどっちが怪物だろう。自嘲しながら拳銃に弾を込める。「玲子さん、最後にこの銃で撃つのが貴女じゃなくてよかった。」それだけが私には嬉しくてたまらなかった。そのときだった。手に温かい感触がある。誰かが私の手を支えている。サギソウのように白くて繊細な指…南玲子だ。「ああ、玲子さん…うれしい…私を助けてくれるのね…私に会いに来てくれたのね…。」二人で引き金を引いた弾はアイハイ族の喉元の種を撃ち抜く。すべてが消えていく…南玲子も…「ああ…またお別れなのね…でも、いつでもあなたを思っているわ…また夢で逢いましょう…玲子さん…。」
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ふと目を覚ますと、頬がヒリヒリと痛い。触れてみると、驚くほど腫れていた。私を見下ろす木桧さんの表情を見て、すべてを悟った。バレたか…？全身がわなわなと震える。平静を装おうと話せば声がひっくり返りそうだ。心臓はこれでもかというくらい早く鼓動をしている。まるで私がアクセルを踏み壊した公用車のエンジンみたいだ。しかし、彼の返答はいつも通り冷静で淡々としたものだった。「…読めない人…。」どこまで悟られたのか恐怖に身震いしながら、鍋の話題に食いついてその場を濁す。 ああ、やってしまった。みんなは私に幻滅するだろうか…知らない間にゆっくりと蝕まれるような闇を感じながら、沈むように眠った。